本棚だけが受験生になっている。

「これ、全部買ったんですけど」
面談の席で、お母さんがスマホの画面を差し出しました。写っているのは子ども部屋の本棚です。英単語帳が三種類、英文法の問題集が四冊、古文単語帳が二冊、世界史は一問一答と通史と資料集と、なぜか論述対策。下の段には夏期講習のテキストが、ビニールの封も切られずに立っています。
「本人は、やる気がないわけじゃないと思うんです」
それは私も同じ意見です。写真を拡大して私が見たのは、中身ではありません。背表紙です。全部きれい。角が一つも丸くなっていません。使い込まれた参考書は必ず角が丸くなりますし、表紙の色が少し抜けます。この本棚は新品同様の輝きを保ったまま、部屋の主より先に、本棚のほうが受験生になっていました。

背表紙がきれいな本棚の見方

塾で20年、延べ数千人の受験生を見てきました。その経験で言えることの一つは、本棚を見ると、勉強量より先に迷いの量が分かるということです。
一冊しかない子は、その一冊が汚れています。十冊ある子は、十冊とも最初の三十ページだけが汚れています。しおりの位置がだいたい揃っているのが特徴で、これは全部を同じ時期に「今日から本気」で始めた証拠です。今日から本気は、だいたい今日で終わります。
そして本棚が育っている家ほど、本人はサボっていません。サボっている人は本を買いません。真面目に情報を集め、真面目に比較し、真面目にレビューを読み、真面目に注文して、真面目に明日から始めます。努力そのものは本物で、方向だけが違います。かわいそうな事態だと思います。

四科目が十七冊に分裂する仕組み

私立文系の受験に必要なのは英語、世界史(または日本史)、現代文、古文の四つです。四つ。片手で数えられます。
ところが書店の棚と講習のパンフレットを通過すると、この四つが「英単語」「英文法基礎」「英文解釈基礎」「英文和訳」「英作文練習」「長文演習」「英文法演習」「世界史通史」「世界史論述演習」「世界史マーク型演習」「文化史」「現代史」「地図問題演習」「現代文基礎」「現代文論述演習」「現代文マーク型演習」「古文単語」に分裂します。そう、予備校で渡されるテキストのタイトルです。
受験生当時からうすうす気付いてはいましたが、教える側に回ってはっきり悟りました。この細分化は受験生のためではなく、完全に教える側の都合です。一冊にまとめると売り物は一つですが、十七に分けると十七回売れます。それを悪いとは言いません。商売ですから。ただし、買う側が「これを全部消化できる」と思い込んだ瞬間に事故が起きます。理由は単純、処理できません。

買った瞬間が、いちばん勉強した気になる

ここで少し脱線します。私の台所にはクミン、コリアンダー、カルダモン、クローブ、ターメリック、フェヌグリークが並んでいます。スパイスカレーを作ろうと思って揃えました。作ったのは一回です。二回目は近所のカレー屋に行きました。スパイスは今も並んでいて、棚を開けるたびに「いつかやる」という気持ちだけが新鮮に補充されます。
参考書も同じです。買った瞬間に、勉強したときとよく似た満足が手に入ります。しかもこの満足には、間違えるリスクがありません。問題を解けば間違えますし、単語を覚えれば忘れます。買うだけなら一度も失敗しない。解説動画も同類で、見ている間は分かった気になれますし、何も試されないので「分かっていなかった」という事実が発覚しません。
だから、集める行為は勉強の代替品として極めて優秀です。人類が「やった気」を最も安く買える方法の一つでしょう。手ごたえが欲しいのに、本物の手ごたえを得るには失敗を通らなければならない。その面倒な回り道を、本棚が代わりに引き受けてくれます。本人が怠けたわけではありません。仕組みとして、そちらのほうが楽にできています。

選択肢が多いほど、今日は始まらない

学校に行っていない子には、他の受験生より時間があります。それ自体は武器です。ただし武器には使い方があります。時間があると、参考書を比較する時間も、レビューを読み比べる時間も、解説動画を三本見比べる時間も、全部確保できてしまいます。
選択肢が二つなら、比べて片方を選べます。二十あると、比べる作業そのものが一日の仕事になります。朝、机に向かって、単語帳を三冊並べて、どれが自分に合うか考えているうちに昼になり、動画で「単語帳の選び方」を見ているうちに夕方になり、その日は結局、単語を一つも覚えないまま終わります。私はこれを怠慢だとは思いません。選ぶ作業を真面目にやりすぎた結果です。
やる気の問題だと言う人がいますが、やる気で何とかなるなら、本棚に二十冊並べた時点で二十倍やる気が出ているはずです。出ていません。むしろ本棚が充実するほど、机に座って固まっている時間が長くなります。犯人は選択肢の多さです。意志は、その被害者です。

本棚に布をかけてください

再始動ラボで最初にやってもらうことの一つが、本棚を閉じることです。捨てなくて構いません。段ボールに入れるか、布をかけるか、押し入れの奥に移すか。とにかく視界から消してもらいます。机に出しておくのは一冊。一冊です。
「その一冊をどう選ぶんですか」と聞かれます。ここで真面目に比較し始めると、また本棚の住人が一人増えます。正直に申し上げますと、この段階での一冊は、どれでもほとんど差がありません。中学英語のやり直しなら、どの本もほぼ同じことが書いてあります。差が出るのは終わらせたかどうかだけで、終わらせた一冊は、終わらせなかった十七冊に必ず勝ちます。
私たちは、本人と「今日はこの一冊のこのページ」を決めるところまでを一緒にやります。決めるのは本人で、私たちは選択肢を減らす側です。手厚く教えることより、選ばなくていい環境を用意することのほうが、この段階の子にはよく効くと思います。
いいですか。みなさんがやるべきことはひとつ。本棚を閉じて、机に一冊。残りの十六冊には、来年の自分が読むかもしれないという淡い希望を託して、段ボールの中で眠っていてもらいましょう。私のスパイスと同じ場所です。

短縮版は note にも掲載しています。